防災福島に暮らしている方へ

3.11 あの日から10年 転入者が経験した東日本大震災を振り返る

2011年3月11日午後2時46分
東日本大震災が発生しました。

2021年3月11日
あれから10年が経とうとしています。

10年という節目を迎え、地元メディアを中心に「あの日」と「あの日からの10年」を振り返る機会が増えています。
あの時、どう行動し、どう感じたのか。
そしてその経験はどう活きているのか。
転入者として、母親として、家族として、震災をどう受け止めたのか。
tentenライターメンバーのうち福島県で震災に遭った2人と、震災後に福島県へ転入した3人がオンライン座談会をおこないました。

当初、座談会は2月14日に予定していました。しかし、前日の13日午後11時すぎに発生した最大震度6強の地震により、同19日に延期。この地震は、東日本大震災の余震だと気象庁から発表されました。
奇しくも10年後の節目に起こった地震により、身の回りの備えを再度見直す必要性を、強く、強く感じることになりました。

▲2021年2月19日オンラインで開催

【参加者】震災経験組
◆伊藤佳枝
2006年転入(相馬市―茨城県―相馬市―新地町)
震災当時の居住地域/相馬市
家族構成(当時)/配偶者:有、子ども:10ヶ月
状況/自宅は被害がないものの断水。電気、プロパンガスは通じていた。夫の実家は津波により全壊。農機具の流出等により田の耕作を諦める。
◆藤本菜月
2007年転入(南会津町―喜多方市―須賀川市―福島市)
震災当時の居住地域/喜多方市
家族構成(当時)/配偶者:有、子ども:1歳半
状況/自宅・ライフラインともに問題なし。実家のある石川県に2か月間避難。
震災後転入組
◆山崎奈央子
2015年転入(会津若松市―福島市)
震災当時の居住地域/東京都
状況/東京・日本橋で勤務中。電車が動かず徒歩で帰宅。
◆西村沙織
2012年転入(いわき市―伊達市)
震災当時の居住地域/福井県
状況/夫の実家(伊達市)とはその日のうちに一度連絡がつくも、その後数日は不通で不安を感じた。
◆小島香代子
2019年転入(福島市)
震災当時の居住地域/東京都
状況/夫(当時は恋人)が宮城県気仙沼市の実家に帰省中。直後に無事を知らせる連絡があったものの、その後1週間不通となる。3月末に気仙沼市へ物資を届け状況を目の当たりにする。

「大変だったね」を共有できる安心感

――10年前はどうしていましたか。まずは、当時福島にいた伊藤さん、藤本さんから。

伊藤 相馬市に転入して数年経った頃。小さい子供を抱えて不安だらけで、生きることに精一杯でした。
今回の地震で思ったのですが、あの頃はまだママ友も少なくて「大変だったね」と不安を共有する相手がいなかったので全部抱えてしまった。そのためか、未だに当時の苦しさが自分の中に残っていて、突然涙がポロリと落ちるようなことがあります。

――テレビのテロップでご主人の無事を知ったとか。

伊藤 全然電話がつながらなかったので、連絡の術がなかったのです。夫の職場は海から近かったので、津波に遭ったかもしれない。ダメかもしれないという思いが頭をよぎりました。電気は来ていたので、テレビを点けていてテロップで夫の無事を知りました。帰ってこなくても、連絡が取れなくても、無事が確認できたのは本当に良かったです。
ただ、夫の実家は海に近いのでダメだろうと思っていました。ですが、必ずどこかに避難していると思っていました。本震前の3月9日にも最大震度5弱の地震があり、その時にも津波注意報が出ていました。その際に義理の両親から「自宅付近はむかし津波に遭っているから、大きな地震があればみんな避難する」と聞いていたから。

藤本 私は喜多方市にいました。1歳半の子どもを連れてママ友のマンションにいる時でした。揺れはあまり大きくなかったのですが、数日前に発生したニュージーランド地震(※2011年2月22日現地時間/28人の日本人留学生が建物の倒壊で死亡)のことが頭をよぎり怖くなり、子どもを連れて平屋の自宅に戻りました。
地震に対する備えをしていなかったので、余震のたびに子どもと屋外に出て。家にいていいのかどうかも分からず、ソワソワしながら過ごしました。翌日からは子育て支援センターに行ったり、買い物に行ったりと普通の生活をしていました。
3月14日起きた福島第一原子力発電所で爆発が起きた映像を見たときは危機感を感じました。石川県の実家の両親からも逃げるように言われました。ただ、ガソリンの残量が石川県にたどり着くほどない上に、高速道路も止まっていました。
そこで、夫と共に一般道を使って新潟県まで行き、石川県から来た父親と合流。携行缶で持って来てもらったガソリンを夫の車に入れて、私と子どもは石川県へ。仕事のある夫は喜多方に戻りました。

▲津波が田んぼを覆う(2011年3月11日:伊藤さん撮影)

津波で景色が変わっていた

――福島県外にいた山崎さん、小島さん、西村さんは。

山崎 当時は、東北や福島と直接的なつながりがなく、何かできればと思いつつ、何もできない状態でした。その後、結婚した夫は会津出身で福島の復興支援に関わりたいとUターンし、私も縁あって福島に来ることになりました。
当日は、東京の日本橋で仕事をしていました。電車が動かないので、6時間以上かけて歩いて自宅まで帰ったのですが、道すがら歩いている人たちにお茶を配ったり、トイレを貸し出している光景を目にしました。その人たち自身、早く家に帰りたいかもしれないし、家族のことが心配かもしれない。そんな状況にも関わらず誰かのために動く姿に感動しました。
それから1週間程度は、人でごった返して電車・バスに乗れないほど。仕事に行けない、買い物に行けないという状態でした。

小島 大学の卒業式を目前に控えた時期でした。私は海に比較的近い、東京の豊洲のレストランにいました。大きい揺れを感じた後、津波が来るかもしれないというアナウンスがあり避難。
夫(当時は恋人)が宮城県の気仙沼市に帰省しており、地震直後に「自分も家族も無事だが、しばらく電話がつながらなくなるかもしれない」と連絡が入りました。その後、3月末に物資を車に積み込んで気仙沼へ。状況を見せてもらいましたが、津波で景色が変わりすぎていてどこに何があるかも分かりませんでした。

藤本 私は当時、喜多方に住んでいて、原発事故後すぐに石川県に戻ったので、浜通りの被害を実際には見ていません。だから、どこか後ろめたい気持ちがあります。

小島 土砂でぐちゃぐちゃで、道も全然分からなかった。「水がここまで来たんだよ」ということを教えてもらい、怖さを感じました。

西村 当時は夫とともに福井県にいて、3月14日に伊達市にある夫の実家に結婚のあいさつに行く予定でした。スケジュールをずらして3月末に行こうとしたのですが、夫の両親から今は来てはいけないと言われて思いとどまりました。
ブライダル業界で仕事をしていたため、東北の支店にある衣装が式までに届くのか心配したことが記憶に残っています。1年後、同じ会社で働いていた夫の転勤によりいわき市へ。津波の影響で家が基礎だけになっている光景を目にして、改めて実感しました。

▲止まった時計(伊藤さん撮影)

▲震災後1か月の新地町(伊藤さん撮影)

子どもと公園のお散歩ができない辛さ

――原発事故後の子育てはどうだったか。

 伊藤 「公園デビュー」に憧れていたんです。でも、公園には誰もいない。
いったん、土を浚ったので大丈夫なはずなのに誰もそれを信じていないように感じました。
当時の福島では公園のお散歩という些細なこともできないのが辛かったです。見えない敵にイライラしていました。

藤本 私は原発事故のあと実家に帰ったので、息子を外で遊ばせることができました。普段は実家が遠くて、不便だな、寂しいなって感じていたけれど「もうひとつの帰る場所」があったのは転入者ならではかもしれません。
でも、福島に戻ってからは、子どもを外で遊ばせていいのかどうかも悩ましかったです。放射性物質は目に見えないのですが、いつも見ている風景が薄いベールで被われているように見えました。

県外とのギャップをもどかしく感じる

――福島に来て感じたことは。

山崎 初めて福島に来たのは震災から4年後。東京ではニュースの頻度は下がり、地震は過去のことになりつつありました。ところが、福島では今も現実。毎日震災関連のことを聞かない日はないし、月命日には行方不明者を捜索していたり。当事者と周囲の人たちは今も震災を現実として受け止めていて、県外の人にとっては過去のことになっていることに衝撃を受けたし、そのギャップをもどかしく感じました。

小島 放射能については、ある程度大丈夫なんじゃないかと思っていました。分からないこともあるけれど。飛行機に乗っても放射線を浴びるという事実を聞いて、海外渡航している人と変わらないぐらいまで落ち着いているのであれば、だったらもう怯えていてもしょうがないと思って。
でも、公園にはリアルタイム線量計(※県内の学校や保育所、公園等に3,099台設置/平成29年2月1日時点/ふくしま復興ステーション)があるし、ママサークルなどで「放射能が心配なあなたへ」みたいなグループもあったりして、今もこういうことで心を痛めている人がいるのだと驚きました。

藤本 震災直後には放射能の勉強会もたくさんあって出席もしたけれど、いろんな意見があってどれが正しいのか分からなくて。結局は自分が判断するしかなかったんです。私の場合は、神経を過敏にしすぎて気が滅入るよりも、うまく付き合っていこうという発想になりました。

西村 震災から1年経っていないタイミングでの転入で、子どもが生まれたばかりだったので心配はありました。けれど、夫のふるさとでもあり、家族が離れて暮らすことにも抵抗もあるので来ないということは考えませんでした。
そんな中で放射線量を自主的に調べている人と知り合って。水たまりなど子どもが好きそうな場所がホットスポット(放射線量が局地的に高い場所)該当しやすいことを知り、外遊びよりは屋内遊び場を多く利用していました。
今回の地震の翌日も、モニタリングポスト(※空間の放射線量を測定する機器/原子力規制委員会のホームページ上でも確認できる/県内628か所の公共施設に設置/平成29年2月1日時点/ふくしま復興ステーション)の数値が上がっていないか確認したし、東電のホームページも確認しました。

▲リアルタイム線量計(藤本さん撮影)

縁あって来た福島で、できることを形にしたい

――福島は大変な経験をした地域。それでも、福島にいる理由とは。

伊藤 なぜここまで新地町にこだわるのかと、自分でも思います。もちろん、夫の実家があるからですが。新地町は津波が来たところに家を建ててはいけないって決めたんです。私はその町の会議に参加していて、住まないという方に手を挙げました。また津波が来た時に、これ以上誰かが亡くなるのを見ていられないと思ったんです。だけど、新地が地元ではない部外者なのに皆さんの故郷を奪ってしまったという後悔というか、もやもやした思いがあります。昔の漁師町の景色がなくなって、道路しかなくなってしまった。
だったら、住めないと決めた地域に人を呼べばいいじゃないか。そこに、子どもたちの笑顔と町民のみんなの笑顔があればそれでいいんじゃないかと思って動いているんです。
私も津波があり住めないと決めた場所に思いや未練があります。田植えを子どもにもさせたかった。景色を見せたかった。私の思いと住民の方たちとの思いは違うとは思いますが福島というより、新地に思いがあるから離れがたいです。
今回の2月の地震でも思ったのですが、死んじゃダメ。生きていないと。まずは命を守る行動をすることが大事です。今回は津波がないということが何よりも安心できました。壊れてしまったものは直したりすればいいですから。

藤本 使命感みたいなものがあるのかもしれません。
縁があって来た福島で、千年に一度あるかないかのあの震災に遭遇したことは、何か意味があるのではと思ってしまいます。ここにいる意味、自分ができること。福島は世界的にみて特別な場所になりました。そこで自分が何かできることを形にしなきゃいけない。「tenten」もあの震災がなければやっていないかもしれません。

伊藤 (震災後)10年企画を動かしています。新地町内の子どもたちを巻き込んで巨大な絵を描こうって。今回の地震で子どもたちも怖いと思っただろうし。「3.11」を今伝えないと、いつ伝えるんだろうと私自身思います。「大人たちは大変ななか、君たちがいたから頑張れた」というメッセージを子どもたちには伝えたいです。当たり前に過ごす一日は当たり前ではなかった。子どもたちには、この日も明日も一日一日を大切に過ごしてほしいと伝えています。子どもたちの存在は「希望の光」で、大人たちの頑張れるもとだったこと、でもそれは今も変わらない。大人として伝えたいことですね。

知り合って、つながって、教えあって。ネットワークが安心の材料になる

西村 今回の地震でも、ママ友のグループラインがとても頼もしかった。「こっちは停電」、「大丈夫ですか」、「何をしたらいいですか」、「今は大丈夫でも水道が止まる可能性があるから水を貯めておこう」って、やることを教えてくれた。「あの時ほどじゃないから大丈夫」って。
福島に来ていろんな人と知り合って、つながりができた。新地町の伊藤さん大丈夫かなとか心配する人も増えたけれど(※伊藤さんの住む新地町は今回の地震で震度6強を観測した)。

藤本 みんなで学んだり、教えあったりする環境が必要だと思っている。そういう環境が準備できていれば福島に新しく来る人も少しでも安心できるんじゃないかと。やっぱり不安じゃないですか。誰も聞ける相手がいないと(※tenten cafeで3月9日に福島県危機管理センターの見学を実施)。

山崎 伊藤さんからも、震災のとき周りに不安を言える人がいなかったというお話がありましたね。結婚で転入してきた人は親族がいていろいろ聞ける人が身近にいるかもしれないけれど、転勤で来た人は頼れる人がいないのは不安だろうし。「tenten」のような場で知り合って、私も救われたところがあります。

藤本 福島の人は大変な経験をしているから、困ったときはお互い様という思いを持っているのかもしれない。そこがいいところなのかな。

▲tentenでは防災の知識を身に着けようと、2021年3月9日にtenten社会科見学として「危機管理センター」の見学会を実施

まとめ

「あの日」わたしは、取材のため富山県にいました。
「その時」大きくゆっくりと揺れたような記憶があります。
当時は徹夜続きだったため、それを寝不足による目まいだと思っていましたが。

関西で生まれ育ったわたしは東北に、そして福島に縁もゆかりもなく
10年後に住むなんて想像もしていませんでした。
夫の転勤で福島に行くことが決まったとき、すこし不安でした。
本当に大丈夫だろうか。普通に生活できるのだろうか。
実際に住んでみると、いたって普通の生活ができます。
もちろん、まだ避難されている方はいるし、通れない道もある。
だけど、とても居心地がいい県です。
tentenを通じて知り合えた方がいるからかもしれません。
人とつながることは、新たに住む場所の安心材料になるのでしょう。

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